紳士

 ある夕がた、少年探偵団の名コンビ井上一郎いのうえいちろう君とノロちゃんとが、世田谷せたがや区のさびしいやしきまちを歩いていました。きょうは井上君のほうが、ノロちゃんのおうちへ遊びにいったので、ノロちゃんが井上君を送っていくところです。
 ノロちゃんというのは、野呂一平のろいっぺい君のあだなです。ノロちゃんは団員のうちでいちばん、おくびょうものですが、ちゃめで、あいきょうもので、みんなにすかれています。
 井上一郎君は、団員のうちで、いちばんからだが大きく、力も強いのです。そのうえ、おとうさんが、もと拳闘けんとう選手だったので、ときどき拳闘をおしえてもらうことがあり、学校でも、井上君にかなうものは、ひとりもありません。その大きくて強い井上君と、小さくて弱いノロちゃんが、こんなに仲がよいのはふしぎなほどでした。
 ふたりは、両側に長いコンクリートべいのつづいた、さびしい町を歩いていますと、ずっとむこうの町かどから、ひとりの紳士があらわれ、こちらへ歩いてきました。ねずみ色のオーバーに、ねずみ色のソフトをかぶり、ステッキをついて、とことこと歩いてくるのです。
 二少年は、その人のすがたを、遠くから、ひと目みたときに、なぜかゾーッと身がちぢむような気がしました。むこうのほうから、つめたい風が吹いてくるような感じで、からだが寒くなってきたのです。
 しかし、夕ぐれのことですから、その人の顔は、まだ、はっきり見えません。ふたりは、そのまま歩いていきました。紳士と二少年のあいだは、だんだん近づいてきます。そして、十メートルほど近よったとき、やっと、紳士の恐ろしい顔が見えたのです。
 ノロちゃんが、「アッ!」と、小さい叫び声をたてました。井上君は、それをとめようとして、グッと、ノロちゃんの腕をつかみました。
 ああ、恐ろしい夢でも見ているのではないでしょうか。その紳士の顔は、生きた人間ではなかったのです。まっ黒な目。はじめは黒めがねをかけているのかと思いましたが、そうではなかったのです。目はまっ黒な二つの穴だったのです。鼻も三角の穴です。そして、くちびるはなくて、長い上下の歯が、ニュッとむき出しになっているのです。それは骸骨がいこつの顔でした。骸骨が洋服をきて、ソフトをかぶり、ステッキをついて、歩いてきたのです。
 二少年は、夕ぐれどきのお化けに出あったのでしょうか。あれを見てはいけないと思いました。あの顔を見ていると、恐ろしいことがおこるような気がしました。ふたりは、コンクリートべいのほうをむいて、立ちどまり、骸骨の顔を見ないようにしました。そして、はやく、いきすぎてくれればよいと、いのっていました。
 ふたりのうしろを、いま、骸骨紳士が歩いていくのです。こと、こと、と靴の音がしています。その音が、ちょうど、ふたりのまうしろにきたとき、ぱったり聞こえなくなってしまいました。
 骸骨紳士が立ちどまったのです。あのまっ黒な目で、ふたりのうしろすがたを、じろじろ見ているのではないでしょうか。
 二少年は、そう思うと、恐ろしさに息もとまるほどでした。井上君には、ノロちゃんの、がくがくふるえているのが、よくわかります。
 いまにも、うしろからつかみかかってくるのではないか、あの長い歯で、食いつかれるのではないか、そして、まっ暗な地の底の地獄へ、つれていかれるのではないかと思うと、生きたここちもありません。
 しかし、なにごともおこらないで、すみました。やがてまた、ことり、ことりと、靴の音が聞こえはじめ、それが、だんだん遠ざかっていくのです。
 その靴音が、ずっと遠くなってから、ふたりは、おずおずとふりむきました。そして、町のむこうを見ますと、骸骨紳士の歩いていくうしろすがたが、小さく見えています。
「ねえ、ノロちゃん、ぼくたちは少年探偵団員だよ。このまま逃げだすわけにはいかない。あいつのあとをつけてみよう。お化けなんているはずがないよ。きっと、あやしいやつだ。さあ、尾行びこうしよう。あいてに気づかれぬように、尾行するんだ。」
 ノロちゃんは、こわくてしょうがありませんけれど、強い井上君といっしょなら、だいじょうぶだと思いました。それで、井上君のあとについて、骸骨紳士を尾行しはじめたのです。
 尾行のやりかたは、小林団長から、よくおそわっていました。あいての二十メートルほどあとから、いつあいてがふりむいても、見つからないように、電柱や、いろいろなもののかげに身をかくして、こんきよくついていくのです。
 骸骨紳士は、ぐるぐると、町かどをまがりながら、どこまでも歩いていきます。あたりはもう暗くなってきました。だんだん、尾行がむずかしくなるのです。
 そうして、一キロも尾行をつづけたでしょうか。ふと見ると、むこうに大きなテントがはってあって、音楽の音が、にぎやかに聞こえてきました。サーカスです。ひじょうに大がかりなサーカスが、そこの広いあき地に、かかっているのです。骸骨紳士は、そのサーカスの前へ近づいていきました。
 おどろくほど、でっかいテントばりのよこには、なん台も大型バスが、とまっています。ゾウやライオンやトラなどをいれるための、頑丈がんじょうな鉄のおりのついた大トラックもならんでいました。大型バスは、サーカスの曲芸師きょくげいしたちが寝とまりをしたり、楽屋がくやにつかったりしているのです。
 大テントの正面の上には、ビロードに金文字で「グランド=サーカス」と、ぬいとりをした幕がかかり、いろいろな曲芸の絵をかいた看板が、ずらっと、かけならべてあります。その下には馬がなん匹もつながれ、一方のかこいのなかには、大きなゾウが、鼻をぶらんぶらんと、動かしています。それらのありさまが、テントの天井からつりさげた、いくつもの明るい電球で、あかあかと照らされているのです。
 ひるまは、その前は黒山の人だかりなのでしょうが、日がくれたばかりのいまは、二、三十人の人がばらばらと、立ちどまっているばかりです。
 骸骨紳士は、人のいるところをさけて、大テントの横のほうへ、とことこ、と歩いていきます。そして、そのすがたは、テントのかげに見えなくなりました。二少年は、見うしなってはたいへんと、そのまがり角まで走っていって、そっと、のぞいて見ましたが、ふしぎなことに、そこにはだれもいないのです。
 大テントの横手は、五十メートルもあるのですから、そのもうひとつむこうの角を、後のほうへまがるひまはなかったはずです。いくら走っても、そんな早わざができるはずはありません。テントのそとがわは原っぱですが、そこにも人かげがないのです。
 骸骨紳士は、やっぱり化けものだったのでしょうか。化けものの魔法で、煙のように消えうせてしまったのでしょうか。
「わかった。あいつ、テントの下をくぐって、中へしのびこんだんだよ、そして、ぼくらを、まいてしまったんだよ。」
 ノロちゃんが、すばやく、そこに気がついて叫びました。
「うん、そうかもしれない。ぼくらも、正面の入口から、中へはいって、しらべてみよう。あんな恐ろしい顔だから、すぐにわかるよ。」
 井上君は、そういって、もうサーカスの入口のほうへ、かけ出していました。

客席の骸骨

 ちょうどそのころ、サーカスの中では、まんなかの丸い土間どまに、はなやかな曲馬きょくばがおこなわれていました。テントのそとにつないであった七頭の馬が、うつくしい女の子を乗せて、ぐるぐると回っているのです。金糸銀糸のぬいとりのあるシャツを着た女の子たちは、馬の上で、いろいろな曲芸をやって見せています。
 ふつうのサーカスの三ばいもあるような、広いテントの中は、むし暑いほどの満員の見物でした。見物席は板をはった上にござをしいて、見物はその上にすわっているのですが、正面の見物席のうしろの一だん高くなったところに、幕でかこった特別席が、ずっとならんでいます。ひとつのしきりに、六人ずつかけられるようになっていて、そういうしきりが、十いくつもならんでいるのです。
 その特別席の前には、すわっている見物のあたまが、ずっと、まんなかの演技場まで、いっぱいならんでいるのです。特別席の中ほどのすぐ前のところに、おとうさんと、おかあさんにつれられた、ひとりの小学生がすわっていました。五年生か六年生ぐらいの少年です。
 その少年が、ふと、うしろをふりむきました。見物はみんな演技場のほうを、むちゅうになって見つめているのに、この少年だけが、なぜか、ひょいとうしろを見たのです。
 天井も、左右も、幕でしきられた箱のような特別席が、ずっとならんでいます。どの席にも五、六人の男や女の顔がかさなりあっていましたが、まんなかへんの、ひとつのしきりには、まるで歯のぬけたように、がらんとして、だれもいないのです。そこだけ、へんにうす暗くて、ほら穴の入口のような感じなのです。
 そのからっぽの席へ目がいったとき、少年は、なぜかゾーッとしました。うす暗いしきりのなかに、ボーッと、白いものが浮きあがって見えたからです。
 それは大きな黒めがねをかけた人間の顔のようでしたが、すぐに、そうでないことがわかりました。黒めがねではなくて、二つの黒い穴なのです。鼻のあるところも、三角の穴になっていました。そして、その下に、白い歯がむき出しています。……骸骨です。骸骨の顔だけが、宙に浮いていたのです。
 少年はギョッとして、そのまま、正面にむきなおりました。そして、サーカスの見物席に骸骨がいるはずはない、きっと、ぼくの目がどうかしていたのだ。と、じぶんにいい聞かせましたが、もう曲馬など目にはいりません。やっぱりもう一ど、うしろを見ないでは、いられなかったのです。
 こわいのをがまんして、ヒョイとふりむきますと、やっぱり、そこには、骸骨の顔が浮いていました。いや、よく見ると浮いているのではなくて、骸骨がソフトをかぶって、オーバーを着て腰かけているのです。ソフトやオーバーが、ねずみ色なので、ちょっと見たのではわからなかったのです。顔だけが宙に浮いているように見えたのです。
 なんど見なおしても、骸骨にちがいないので、少年はとうとう、隣のおとうさんのからだをゆすぶって、
「おとうさん、うしろに、へんなものがいる!」とささやき、そのほうを指さして見せました。
 おとうさんは、びっくりして、うしろをふりむきました。それに気づくと、おかあさんもふりむきました。だれの目にも、それは骸骨としか見えないのです。
「アラッ!」
 おかあさんが、びっくりして、おもわずかん高い声をたてました。
 すると、その近くにいた見物の人たちが、みんな、うしろをふりむいたのです。そして、オーバーを着た骸骨を見たのです。
 見物席いったいが、にわかに、ざわめきはじめました。大テントの中の千人いじょうの見物の顔が、全部うしろをむいたのです。そして、特別席のあやしいものを見つめました。もうだれひとり曲馬など見ている人はありません。
 そのとき、まんなかの丸い演技場のはじのほうを、数人の人が走ってきました。さきにたっているのは、井上少年とノロちゃんです。そのあとからサーカスのかかりの人が三人、走ってくるのです。井上君は骸骨のいる特別席を指さして、「あすこだ、あすこだ。」と、おしえています。
 そのさわぎに、演技場をぐるぐる回っていた七頭の馬も、ぴったりとまってしまいました。それらの馬の背なかで、曲芸をやっていた少女たちも、いっせいに特別席のほうを見つめています。
 大テントの中の全部の人の顔という顔が、特別席を見つめたのです。
 特別席の骸骨紳士は、何千の目に見つめられても、べつに、あわてるようすはありません。かれは、しずかにイスから立ちあがりました。そして、特別席の前のほうへ、ズーッと、出てきたのです。恐ろしい骸骨の顔が、電灯の光をうけて、くっきりと浮きあがりました。
 それを見つめている千の顔は、まるで映画の回転が、とつぜん、とまってしまったように、すこしも動きません。声をたてるものもありません。大テントの中は、一瞬、死んだように、しずまりかえったのです。
 骸骨紳士は、特別席のしきりの前にあるてすりにもたれて、ぶきみな白い顔を、ヌーッと、見物たちのほうへつき出しました。そして、にやりと笑ったのです。くちびるのない歯ばかりが、みょうな形に開いて、ゾッとするような笑いかたをしたのです。
 見物席のあちこちに、「キャーッ!」という、ひめいがおこりました。息をころして怪物を見つめていた見物席が、いねのほが風にふかれるように、波だちはじめました。みんなが席を立って逃げだそうとしたからです。
 そのとき、井上君とノロちゃんをさきにたてた、サーカスの男の人たちは、見物のあいだをかきわけて、骸骨紳士の席へ近づいていました。そのあとからは、べつのサーカスの人たちが、ふたりの警官といっしょにかけつけてきます。
「ウヘヘヘヘ……。」
 なんともいえないきみのわるい笑い声が、大テントの中にひびきわたりました。骸骨紳士がみんなをあざけるように、大笑いをしたのです。そして、サーッと特別席のおくのほうへ、身をかくしました。
 そのしきりのうしろにも、幕がさがっています。そこから、そとへ逃げだすつもりでしょう。
「アッ、逃げたぞッ。みんな、うしろへまわれッ!」
 だれかが叫びました。サーカスの男たちは、特別席のはじをまわって、そのうしろへ走っていきます。

構造:S造

所在地:東京都千代田区

延床面積:100㎡

規模:地上3階、地下2階